ロシア旅行記 (続き)
真冬のシベリアからモスクワ・ペテルブルグへの旅
1997年2月26日〜3月6日
これは、真冬のロシアをイルクーツクからモスクワ、そしてサンクトペテルブルグまで1997年2月に、一人で旅行したときの記録です。それから1年余、またロシアは変わっていると思いますが、関心がありましたら、お読み下さい。
○第6日(3月3日(月))
МОСКВА(モスクワ)
3:30起床 窓から景色を見る。
雪原の 夜汽車の窓に 灯が二つ
起きて、洗顔、荷物整理など。モスクワが近づく。あと30分だ。外は、広々とした農地と集落。そして、大きな都会に入る。
6:35モスクワ・ヤロスラブリ駅到着!まだ薄暗い中で、ホームに降り立つ。あまり寒くない。ここは、プラットホームが作られている。正面の駅舎に、赤いМОСКВАのイルミネーション。写真を撮っているうちに、Jillがいなくなる。駅舎に移動。ひどくごみごみした中を人が行き交っている。ここから、N君は今夜の夜行でフィンランドへ、S君は都心のインツーリストホテルへ、そして、残りのK君と4人組はいっしょにイズマイロボホテルへ、あとの2人組は、ビザの再発行手続きに日本領事館へと別れる。
地下鉄に乗るのために階段を下り、コムソモリスカヤ駅に行く。入口で、ジェトンを買う。1個1500p。おもちゃのようなプラスチックのコインだ。自動改札機に投入し、バーを押して構内に入る。
朝早いせいか、まだ混んでいない。ロシア文字を読みながらクールスカヤへのホームへ移動する。英語の表示はない。エスカレーターはとても長く、そしてとても速い。そして、ゴーッとすごい音を立てて走っている。右に立ち左側を空けると、ここを走るように下っていく人もいる。階段の一番下には、監視人のボックスがあり、女の人がいる。恐ろしいくらいのスピードだ。ホームは広く、壁は美術館のようだ。地下鉄の車両はあまり新しくはない。
一駅めが乗換駅のクールスカヤ。乗り換えもロシア文字の表示を読みながら移動する。
通路も装飾され、東京やパリ、ロンドンいずれの地下鉄よりもスケールの大きな地下空間である。核戦争時の地下シェルターという話も聞いたことがある。
乗り換えて4つめがイズマイロボパルク。この駅の構内も、彫刻がある立派な空間だ。外に出る階段を上っていく。均一料金なので出口はフリーだ。
外に出ると、そこは公園の一部であり、高い建物が見える。道路を渡り、そちらに向かって歩いていると、客引きの男が来て、しきりに何か話しかける。45$としきりに言っている。イズマイロボホテルはどこかというと、来いといって歩き出す。あとから思うに、予約無しの客と間違われたようだ。予約済みだと言ってやればよかった。
日本で、旅行会社にデルタというところに行けといわれていたので、そちらに向かう。20階以上の高い建物にそれぞれアルファ、ベガ、ガンマ、デルタという名がついている。男は、ガンマの方に行き、こちらに来いとしきりに言っている。わかりにくい入口から入りインツーリストのオフィスを見つけ、チェックイン。7:50ころになっている。
K君とあとで会うことにして、割り当てられた1616号室に行き、3日ぶりの風呂に入る。 荷物を広げ、着替えをして、9:00少し前におりてぶらぶらして、それから両替をして、K君と会い朝食。お菓子のようなパイとチャイを食べた。26,000p。
行動開始。日本の旅行会社あてに書いた手紙を発送しに中央郵便局へむかう。外に出ると、雨。3月とはいえ、冬のモスクワで雨とは!。
地下鉄駅でジェトンを買いクールスカヤで降り、中央郵便局を探す。どうも、反対側に出てしまったようで、雨の中を歩いてもさっぱりわからない。結局戻り、メトロを乗り継いでチーストプルドイに行き、そこで人に聞いてようやく中央郵便局に着く。
ロシアの中央郵便局だから、さぞや大きな建物だろうと思いきや、そうでもない、ありきたりのビルだった。日本へはがきを16枚送る。1枚2500p、封書は1通3500p。ここで
K君と別れる。
ここから、クレムリンめざして、歩く。メトロのルビャンカ駅から赤の広場へ。この前見た、あの聖ワシーリー寺院とクレムリンの建物が見えてくる。雨のせいか、赤の広場は人が少ない。ГУМ(グム・デパート)に行き、散歩。西ヨーロッパの、特にフランスの高級品を売る店が目につく。そのあと、裏のアレキサンドロフス小公園に行き、トロツカヤ塔のところから、クレムリンに入場券を買う。ルーブルが足らず、ドルでは払えない。仕方なく、クレムリンのみの券を10,000Pで買う。中で、一つ博物館に入る。学割で15,000P。ロシア語どころか英語すらかかれてない学生証を見せて、学割にしてもらった。中には、古い装飾品の数々。また外に出て歩く。雨の中のクレムリン見物であった。
クレムリンを出て、ルーブルに両替をしようと銀行に行くがパスポートの提示を求められる。パスポートは、ホテルでチェックインのときに保管されてしまい、ホテルカードを見せるがだめ。結局、インツーリストホテルまで歩き、両替することになった。レートはよくない。ここで、一休み。チャイ10,000Pで高い。
それから、ボリショイ劇場の前に出る。何人かのダフ屋がうろうろしている。それらしく近づくと、声をかけてくる。聞いてみると、20ドルで席があるという。7ドルのもある。20ドルのはいい席だというので、買うことにした。2000円、日本では、夢のような値段だ。探せばもっと安いところもあるかもしれないが、時間の方がもったいない。話がまとまり、取り引きをしようとすると、突然、いや30ドルだ、という。とんでもない、じゃあおしまいだといって、後ろを向くと、20でいいという。万事がこの調子なのかもしれない。
そのあと、向かいのカールマルクス像のそばに行く。台座に、ロシア語で万国の労働者団結せよ、と書いている(ようだ)。
それからクズネツキー通りに行き、本屋を探す。見つけて、手帳に書いてもらっていた'高校の数学の教科書'を欲しいというと、一角に連れて行かれた。そこには、教科書がまとめておかれていた。アルゲブラとゲオメトリーヤで何種類かある。何学年向きかという表示がしてあり、中をぱらぱら見て、2冊選んだ。内容は、日本の高校生と同じくらいである。後で教科書を見ていて気がついたのだが、何と、キリル文字でなく、ABC・・・とラテン文字のアルファベットが使われている。
お金の支払い方は、まず、カッサというところで、値段分のお金を払い、レシートを受け取り、本売り場に行き、レシートを見せ本を受け取る。その時レシートは、一部を破き印をつける。という、かつて、チェコで見た東欧のやり方である。客が金を払わないのに物を持っている時間を作らせない、という意図があるのだろうか。とにかく、無事懸案であったロシアの高校教科書を手に入れる、ということは実現したのである。値段は、2冊で33000ルーブル、700円ほどになる。
後は、そのあたりをぶらぶら歩き、地図屋でモスクワの市街図(20000P)を買った。ロシアそろばんは、買えなかった。
そこから、明日の夜通るであろうコースの下見を兼ねて、ボリショイ劇場前からコムソモリスカヤ駅を経て、クルースカヤで乗り換えイズマイロボスキーパルクに戻る。
4:30に駅をに着く。外へ出ると、にぎやかに露店が出ていて、食べ物や着るものなどを売っている。値段は安く、これがロシアの庶民の暮らしなのだと納得する。ホテルに戻ると、バウチャーを返してもらい、明日の切符を受け取る。イルクーツクでのトラブルがあっただけに、切符をもらうという当たり前のことにも安心する。両替の後、ビールを買う。11%のロシアビールが10000Pであった。部屋に戻り風呂につかって、一休みする。外に出ると緊張の連続なので、心地よい。
しばらく休んだ後、駅前の売店でビールを買う。ドイツ製とオランダ製で6000pと6500p。それにミネラルウオーターが4000pであった。その後、K君と2階のレストランで夕食にしようと出向くが、何とメニューもなく、できるものは一つのみ、前菜、肉・米・豆の盛られた皿、チャイ。これで2人分で70000pという高さであった。
その日は、早朝モスクワに着き、悪天候の中をモスクワの街を歩きまわり、くたびれてしまった。眠る前のビールの心地よさ。
○第7日 ( 3月4日(火) )
МОСКВА (モスクワ)⇒ САНКТ ПЕТЕРБУРГ(サンクトペテルブルグ)
起床後、今日の予定を確認。今日は、チェックアウト後レニングラード駅に行き、荷物を預けた後に昨日いけなかったところをまわる。夜、ボリショイ劇場でオペラを見て、サンクトペテルブルグ行きの夜行列車に乗る、という行程だ。
8:30に朝食。こちらは昨夜の夕食よりずっとまともだ。チェックアウト後、コムソモリスカヤ駅に行く。
レニングラード駅で、荷物預かりを探す。駅の表示がロシア語なので、探すのに苦労する。初めに見つけてところは、夜まで預からないらしい。駅の地下に荷物預かりを見つける。ところが、窓口がたくさんあり、おまけにどこも同じ時間を表示している。そんなはずはないと思うが、どの窓口かわからない。仕方ないので、手帳に12:00-23:00と書いて、一つの窓口に持っていくと、ようやくここではなくあっちへ行けといわれた。13番の窓口がそうらしい。13番でよく見ると、小さな紙切れに-24:00と書いている。まったく不親切なところだ。といっても、これがロシアだと思うと、こんなものかとも思う。預かり料5100pを払い、ほっとする。
それから、コムソモリスカヤ駅へ行き、ホームで地下鉄を待つ。電車が入線し乗車した瞬間だった。4、5人の女たちが何かわめきながら群がって来た。そして、取り囲んでポケットや上着を探っている。白昼、地下鉄の車内である。群がる女たちをふりはらっていると、発車時間になったのか、ホームに逃げていった。4、5人の女たちで、ある者は子どもを背負っている。貴重品は内ポケットにあり、バッグも肩から掛け蓋もしっかりしていたので、何も被害はなかったが、あまりのことに、驚いてしまった。他の乗客たちは、見ているだけである。単独の外国人旅行者が安心して歩けない街なのだ、ここは、と改めて治安の悪さを実感した。女たちは貧しい様子で、生活のため物盗りをせざるをえない状況におかれており、かの社会主義国が、こんなありさまになってしまったのかということを身をもって感じた。
それから、都心に出て、プーシキン美術館に向かった。プーシキン美術館は堂々とした建物である。
入口へいくと、クロークでコートと荷物を預けるよう言われた。そして、入場料10000pを払い、見学をする。
中の収蔵物は、すごいの一言だ。古代からの彫刻の数々、そして、中世ヨーロッパの絵画の数々、近世ヨーロッパの絵画特に印象派の作品が無造作に壁にかけている。モネのルーアンカテドラルが2枚、セザンヌのサンビクトワール、その外、ルノワールもマネもぽんと壁にかけている。印象派の部屋で、たまたまJillに会った。広いモスクワの中でこんなところで会うとは、と、再開を喜び合った。ルノワールの少女の絵が好きだということだ。今夜、ボリショイ劇場に行くとの事であった。
しばらく見て歩いた後、ティールームでお茶をのみ、ミュージアムショップで本と絵葉書を買った。
ここでは、特別展として、シュリーマンの発掘したトロイの発掘品の展示会をやっていた。こちらは、入場料15000pであったが、滅多にない機会なので、見た。さすがに鉄や銀はさびていたが、黄金はキラキラと光り輝いていた。首飾りなどを見たとき、数年前に、韓国の慶州の国立博物館見た発掘品と似ているような気がした。昔の人は、黄金のこの輝きに魅せられたのだろうか。
外に出て、ボリショイ劇場に向かっていく。途中、バーで夕食。レバーとジャガイモ、肉の煮凝り、肉入りパン、チャイで24000pであった。
6:00にボリショイ劇場へ着く。入口も威厳のある建物で、中に入ると、ホールと桟敷席というオペラ劇場の造りであった。内部を散歩する。そしてシナリオを15000p、オペラグラス5000pジュース5100pで求める。席は、ボックスの2列目であった。あまりいい席ではないが、仕方ない。ボリショイ劇場に入るだけでもすごい事なのだから。出し物はモーツァルトのフィガロの結婚であった。
10:30に途中であるが、退出し、レニングラード駅に向かう。荷物を受け取り、列車の入線まで待つ。少し早く来すぎたが、事情が分からないところで、乗り損ねる事はできないので仕方がない。しばらく待って、入線。23:30乗車。サンクトペテルブルグ行きの「赤い矢」号である。シベリア鉄道のロシア号に比べてとても新しく設備もいい。同室はロシア人3人。23:55発車した。しばらくモスクワの夜景が続くが、ロシア人たちはさっさと寝る支度をして寝てしまった。この列車は、ミネラルウォーターやらコップやら弁当やらついている。しばらくするうちに、眠ってしまった。
○第8日(3月5日(水))
САНКТ ПЕТЕРБУРГ(サンクトペテルブルグ)
7:15起床、「赤い矢」号はサービスがよい。朝食・チャイ・ミネラルウォーターがついている。朝食のパックの中身は次のようなものである。パン2個・お菓子・インスタントコーヒー・紅茶・砂糖2個・ミルク・チーズ・デザートヨーグルト・おしぼり・ナイフ・フォーク・紙ナプキン。これらがプラスチックの容器の中に入っている。また、鉄道のマークの入ったコップは壷型をしたもので、振動によってこぼれにくくなっている。また、コンパートメントに内側から鍵をかけられるようなプラスチックの留め金がある。きっと、盗難が発生しているのだろう。コンパートメントは新しい。これで、モスクワ=サンクトペテルブルグ間で233,500pだから、高くない。(ロシアの普通の人にとっては、そうではないだろうが)
8:30サンクトペテルブルグのモスクワ駅に着く。活気のある駅だ。最近、この駅で旅行者が盗難にあっているという情報があるので、下りるときに少し緊張する。何事もなく過ぎ、地下鉄の駅に向かう。ここのジェトンは金属製で、モスクワのものがプラスチックのおもちゃみたいだったのに比べて重みがある。値段は同じ1500pであった。
駅を出る方向を間違えて、予定と違うリゴスキープロスペクト駅に行ってしまった事に気がついたが、そのまま、モスクワホテルのあるアレキサンドラネフスカバ駅に行く。ペテルブルグの地下鉄は、乗換駅の名が同じところと違うところがあり、慣れるまでややこしい。
駅を出ると、目の前にガスティニツェマスクバ(モスクワホテル)があった。ここのフロントでチェックインの手続きをする。このホテルは、これまでのロシア式の各階の管理人のおばさん(デジェルナーヤ)が鍵を管理する方式でなく、フロントで、電子ロックのカード鍵をくれる。7076号室を割り当てられる。7階にいくとデジェルナーヤはやはりいた。部屋に入り、荷を解き、一息いれ、風呂に入ろうとすると、褐色のぬるい水しか出ない。クレームをつけると「セントラルヒーティングだからあと少し待て」という。仕方なくぬるい水のシャワーで済ませた。
11:00ホテルを出発。ネフスキー大通りを経てエルミタージュへ向かう。地下鉄に乗り、2つめのガスティーニドゥボールで下りる。外に出ると、方向感覚がまったくなくなっていて、しかたなしに、少し歩く。右に、公園が見え奥に劇場が見える。ここで、警官にエルミタージュはどこかと聞いた。地図を見せろというので地図を見せると、今の位置と方向を教えてくれた。いるところはアレキサンドリア広場で奥にはアレキサンドリア劇場が、そして隣にはサルトィコフ・シェードリン公共図書館がある。広場には大きな記念碑(エカテリーナU世)がある。
ネフスキー大通りを進んでいく。ここはこの町で一番にぎやかな通りだとかで、両側にはいろいろな建物が並んでいる。しばらく行くと運河を渡り、左手にカザン聖堂の大きな建物がある。更に進むと、モイカ川を渡りつきあたる。右手を見ると、あのエルミタージュが見える。宮殿広場は半円形の凱旋門に囲まれ、中央にアレキサンドルの円柱が立っている。高さは50m弱だとか。凱旋門の上には馬車に乗った勝利の女神の像が乗っている。ベルリンのブランデンブルグ門みたいだ。広場の向こうには、薄い緑の壁と白い柱のエルミタージュ。
とうとうここまでやって来た! 入口を探しながら川の方に回る。緑と白の建物が美しく、道路を隔てたネヴァ川は凍っている。少し歩くと、入口らしいところは着く。入口に、ЭРМИТАЖ(エルミタージュ)とかかれている。
12時少し過ぎになっていた。入って地下のクロークで荷物とコートを預け、受付で入場料60000pと撮影料20000p支払う。まず、昼食。カフェに行くと、なんとハンバーガー屋の店であった。食べおわり、いよいよ館内を歩きはじめる。はじめに館内見取り図を1500pで買う。はじめに15−18世紀の中世ヨーロッパ美術。建物のインテリアの素晴らしさと絵の多さに圧倒される。ベルサイユ宮殿の中と甲乙つけがたい。数多い絵の中にはレオナル・ド・ダビンチやミケランジェロ、ラファエロやエルグレコ、ゴヤ、ヴァン・ダイク、レンブラント、ルーベンス等数限りなくある。
ひたすら歩き回り、それぞれが雰囲気の異なる華麗な装飾の部屋と廊下を通り過ぎる。無造作に絵がかけられている。3時ころ、疲れてカフェで一休み。
その後古代ギリシャ彫刻を急ぎ足で通過し、19世紀からのヨーロッパ美術の3階フロアに行く。これまでに、中世の絵画をいやになるほど見ていたゆえに、印象派を中心とする新しい美術がとても新鮮にみえる。中世の絵画をこれだけの量見る事はなかったので、頭では知っていたが、なぜ印象派が生まれたのか、が実感される。印象派は枚数としてはあまり多くないが、誰の絵でもある。それも、一つの部屋に、無造作に掛けられている。これが日本なら、このうち数枚持って来ただけで、大騒ぎになるところだ。モネ・マネ・セザンヌ・コッホ・ルノアールからマチス・ピカソに至る20世紀初頭のものまでが並べられている。
これらの絵を堪能した後に、ロシア美術セクションに行き、インテリア工芸品のすごさに驚く。ロシアのツァーリは金持ちだ!途方もない金持ちだ!と感じさせられる。まだ全体の5分の3ほどしか回っていないのだが、時計は5時を回ってしまった。
6時閉館との事なので、入口の方へ移動すると、ミュージアムショップでは、片づけが始まっていた。5時半ころ、ようやっと、本120,000pと、地図30,000pを買った。ルーブルが足らずドルでの買い物だった。絵葉書は買いそびれてしまった。6時は、係りの館員が帰る時間なのだ!こういうところにもロシアらしさが見える。6時少し前に、美術館を出る。ほぼ6時間歩きっぱなしであった。それでも、見残しが5分の2近くあった。この広さは、美術館として、想像を絶するものである。
程よい疲れと軽い興奮を感じながら、ネフスキー通りを歩いて戻る。3つの運河を渡り、人の行き交う繁華街を通り、途中、店でチョコレートを買い、左右の建物を見ながら、ホテルまで歩く。ホテルは、ネフスキー大通りの最後にある。このとおりを端から端まで歩くことになる。途中、革命広場を過ぎ、モスクワ駅を通り約一時間でモスクワホテルに着く。7時であった。
風呂に入り、8時ころレストランに行く。ここは、これまでで一番まともであった。スープ・きのこの壷焼き・ステーキを食べ、ワインを頼む。フランスのテーブルワインが1本30$であった。食事は48$、この旅行で一番豪華な食事であった。特にきのこの壷焼きがいけた。ワインを半分部屋に持って帰り、飲みながら、一日を振り返る。朝、夜行列車で着いてから、長い一日だった。疲れたー。9:30寝る。
○第9日(3月6日(木))
САНКТ ПЕТЕРБУРГ⇒МОСКВА⇒成田
いよいよ今日は、帰国する日だ。朝起きて、片づけをしながら残金を計算する。50$と59$そして79,100P。日本円にして1万数千円。ロシアでは、ずいぶんな金である。朝食は、ジュースとジャムがうまかった。キャベツの煮た物は味がしない。お菓子はたくさんある。正体不明のものもある。旅行が始まって、生野菜をほとんど食べていない。しかし、真冬のロシアでは、これが当たり前だろう。そうしてみると、日本というのは、一体どうなっているのだろう。真冬でも、生野菜がいくらでもある。多くは、ハウスで石油によって育てられたものだと思うが、何と贅沢な社会だろう。
部屋に帰って、一休みし、郵便を出しにロビーに行くとJillに出会った。モスクワに続く奇遇だ。モスクワから夜行で来たという。昨日来たのと同じ列車のようだ。ペテルブルグの事を話す。プーシキン美術館で買った絵葉書のうちに、ルノアールの描いた少女があったが、これが気に入っているというので、Jillにプレゼント。そこで別れる。郵便を出す。2500pを5枚と3500pを1枚、切手を買う。6階に戻り部屋から荷物を出して、チェックアウトしようとしたら、フロアのデジェルナーヤが、「スビョーティは買えたか?」と聞いてくれた。きのう、「どこでсбёты(ロシアそろばん)を買えるか?」と聞くと、デパートに行けと教えてくれたおばさんである。昨日は、買えなかった、今日買い物に行きたいというと、地図の上で、デパートД.Л.Т.のお土産売り場に行けと教えてくれた。とても親切なおばさんだ。お土産に持って来た電卓をあげると、とても喜んでくれた。
フロントに行きチェックアウトの手続きをした。カードキーをお土産にくれというと、くれた。地下で、荷物を預かってもらって、ロビーに出ると、またJillとあった。エルミタージュに行くところだというので、途中まで一緒に行こうという事になった。朝食がまだというので、ホテル前の売店に行くが、適当なものは売っていなかった。美術館の中にハンバーガーショップがあると教えると、そこに行くということになり、地下鉄に乗った。ホームを間違えて引き返し、乗り込み、ガスチーヌィ・ドヴォールで下り、ネフスキー大通りに出た。そこで、エルミタージュの方向を教え、別れる事になった。別れるときに、ヨーロッパ流に抱きしめられたのには驚いた。
ガスチーヌィ・ドヴォールは、2階建ての建物で、外壁は工事中だったが、中は店がたくさん集まったデパートである。かなり広い。周囲は1kmの回廊があるという。店に入るとどこが何売り場かさっぱりわからない。英語はほとんど通じない。ホテルで書いてもらった「土産物屋」という文字を見せながら、あっちとかこっちとか聞きまわって、ようやく土産物屋が数軒集まっている一角に出た。そこで、人形やらスプーンやら細々したお土産を買う。スビョーティはないかと聞くと、ここにはない、あっちへ行けという。うろうろした結果わかったのだが、文房具屋へ行けといっていたのだ。文房具屋に行って聞いてみると、ここにもない。残念だが、万事休す。歩き回ってみると物不足どころか、いろいろな物が売られている。ただ、普通の人にとっては、ここで売られている物は高いのだろう。
デパートを出てホテルに戻る。時間が少しあるのでアレキサンドル・ネフスキー寺院に行ってみる。教会の建物は、所々が傷んでいる。右手の墓地は、有名な人の墓があるそうだがそこまで見る暇がない。
ホテルに戻り荷物を受け取り、12:25ホテルを出る。メトロを乗り継いで、空港へのバスが出るマスコフスカヤ駅で降りる。地上にあがり、バスを探す。39番というバスが来たので、「プルコーヴォ?(空港のある土地の名)」と聞くと、そうだとのこと。バスに乗り込む。1:00。乗ってみて、お金の払い方がわからない。バスはワンマンカーで車掌は乗っていない。乗ってから、お金を手に持ち、前に座っている上品な夫人に「Как?」と聞くと、分かってくれたのか1000p札を取り、まわりの人に「タロン」はないかと聞いてくれた。あるビジネスマン風の男が持っていて、1枚きって渡した。それを、窓のところにあるパンチで穴をあけ、渡してくれた。そして、立っていると、席に座れと指し示す。途中、その夫人は下りていったが、下り際に挨拶した「ダスヴィダーニャ」というロシア語がとても美しく感じた。しばらく行くと郊外の風景になって来たところで、3人の男が乗り込んで来た。車掌の検札らしい。少しでっぷりした年配の車掌が来たので、切符を見せると、荷物を指差し何か言っている。どうも、荷物運賃を払えといっているようだ。先にロシア人に切符を買ってもらったときにはそんなことはなかったから、「外国人向け」の扱いかもしれない。ここまで来て、空港も近いし面倒は避けたかったから、ポケットからルーブルを出すと、2万p抜き取って前方に行き、タロンを1枚持って来て、渡された。ロシア人なら多分何もないのだろうなと思いつつ、この国の現状を垣間見る思いだった。
バスは1:30プルコーヴォ第一空港に着いた。ここは国内線の空港である。バスを降り空港の建物の入口から中に入ると、薄暗い、汚い待合室であった。フライトの案内板を見ると、モスクワ行きがない。そこで、モスクワ行きはどこかと聞くと、別な入口を示された。そちらは、さすがにこの国第2の都市の空港らしいところであった。時間は、たっぷりあった。早く来すぎた感じだが、この国では、何が起こるかわからないから、仕方がない。昼食を食べようとしたが、ルーブルが足りない。さっきのバスの荷物代の2万pあれば問題なかったのだが。両替を探すと、ちょうど昼休みで開いていない。結局、空腹のまま、ルーブルがないために待ち時間をつぶすことになった。なかなか融通がきかない国だ。
しばらくして、搭乗が始まった。日本人は、たった一人だけだ。座席の割り当てなどはない。適当に座って待っていると、14:55離陸時間になった。飛行機は雲海上に出た。いよいよロシア旅行の最後の場面にさしかかっている。あとは、シェレメチェヴォTからUへのトランスファーだけだ。たった1時間のフライトだが、ビールが出て、ケーキが出て、チャイが出てと忙しい。手紙と葉書をかいた。忘れずに出さねば。トランスファーはどうなっているだろう。そうこうしていると、モスクワが見えて来て、15:55着陸。シェレメチェヴォTだ。16:10空港ビルに入り出口へ向かう。インツーリストは目の前だ。荷物もすぐに出て来て、インツーリストのおじさんのところで、名前を確認する。空港の出口には、タクシーもあるし、バスも運行されている。日本にいるときは、事情がまったく分からず、安全策を、という事でトランスファーをつけたが、何のことはない。高いトランスファー(7000円)も出す必要はないのであった。
インツーリストの車は若い兄ちゃんが運転するBMWであった。ロシアにもこんな車が走っている。あまり良いといえない道路を20分くらいであっけなくシェレメチェヴォUに着いた。日本への便は1時間遅れの20:20になっていた。
空港ビルで、あの立命の4人組の若者たちにあった。お土産やを覗いていくつか買い込む(10$)。搭乗手続きを始める。やっと荷物から解放され、空港内の免税店を覗いてまわる。実に5年ぶりのところだ。5年前より空港全体がきれいになっているようにも感じた。スミルノフ2本と本を買い、ドイツビールを飲みに行く。レーベンブロイで白ビール・バイツェンビール等で14.5$。長いロシアの国内旅行を振り返りつつ、やっとその旅行の終わりのときを迎え、ビールがやたらとうまかった。
20:00搭乗開始。乗ってみて驚いた。突然の日本語ラッシュ、それも圧倒的多数が若者なのである。この便は、パリ始発のモスクワ経由東京行き。それで、日本の若者の卒業旅行貸し切り状態なのである。エアバスはかつてのアエロフロートのイリューシンに比べ明るく広い。機内サービスも、これがアエロフロートかと思うくらいである。食事・飲み物・音楽・睡眠・・・・と10:30のフライトで成田だ。
○第10日(3月7日(金))
成田
窓からの景色は雪をいだいたシベリアの山岳地帯を過ぎ、日本海が見えた。飛行機ではあっという間だが、あの冬の白い大地を列車で東から西へ4日間も移動したのかと思うと、不思議な気がした。
成田に着くと、そこはもう春であった。残金$61、列車代金$206と生活費に$383費やした10日間の旅であった。
1997年6月9日
浦川明彦
mail@urakawa3.netロシア旅行記
真冬のシベリアからモスクワ・ペテルブルグへの旅
1997年2月26日〜3月6日
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