ロシア旅行記
真冬のシベリアからモスクワ・ペテルブルグへの旅
1997年2月26日〜3月6日・・・・浦川明彦
これは、真冬のロシアをイルクーツクからモスクワ、そしてサンクトペテルブルグまで1997年2月に、一人で旅行したときの記録です。
それから年が経ち、ロシアは変わっていると思いますが、関心がありましたら、お読み下さい。
○第1日(2月26日(水))
上越⇒新潟⇒ИРУКТСК(イルクーツク)
上越発(高田駅前バス停11:30新潟行バス\1800)高速バスで新潟に向かう。新潟駅前1:30着、アエロフロートの新潟支店でリコンファームをしようとすると、不可であった。ただし、帰りの便が1時間遅くなっていることを知らされる。「代理店から聞いてないのか」といわれる。一体どうなってるんだ、この先どうなるのだろう。
駅前から、バス2:30発。新潟空港2:55。新しいが何にもない空港。こんなことなら、新潟の町でいろいろしておくのだった。時間つぶし。3:40出国手続き、あっというまに終わる。地方の空港はいい。機体はツポレフ154。4:15搭乗
ロシア人20人くらい、日本人12人で席はすかすか。16:45動きはじめて16:50離陸、すぐに赤ワインとオレンジジュースのサービス。17:50日没前の夕焼け(赤オレンジ色の美しさ)それから、夕食(ステーキ、パスタ、ポテト、にんじん、サラダ、パン、デザート)18:00陸地に至る。雪をかぶった大地が見える。20:00お菓子とコーヒー、21:00飲み物がでる。21:15下降開始。21:40着陸
{現地時間20:40 に調整−1h}
21:00機外へ出る。ロシアの大地に足を下ろす。寒い・暗い。3分歩いて空港建物へ、パスポートコントロールでは、2列に並びゆっくり、ガラスの向こうに女性係官が無言でチェックをする。イミグレーションも無言で通過した。ところがそれから問題だ。荷物が出てこない、飛行機はすぐそこにあるのに・・・・。荷物を待っているのは、ロシア人が10数名と日本人が10名くらい。所在なげに、話をしたり、ぶらぶらしたりして時間を過ごす。(これがロシアだ、始まったばっかりだ)と言い聞かせる。
22:25荷物出る、そのまま税関へ、申請書をしげしげと見て、OK、拍子抜けがする。一言も口をきかないままの入国審査であった。時に22:35。しかし、予定より、大幅に遅れている。到着予定は20:00。ホテルに行くトランスファーはどうなっているだろうか、不安がよぎる。時刻は遅い。交通機関は、なくなっている時間だ。空港の建物の出口から出ると、暗い中に向こうに建物が見えるので、歩いていった。ところが、途中で、こちらが出口だと、小さな木戸のようなところから外に出されてしまった。「国際空港」のイメージとは似ても似つかない「出口」だ。
その木戸を一歩出るや、凍てついた暗い中に、街燈が光り、30人ほどの男と女が立ってる。出るや、何人かが近寄ってきて、タクシーと声をかけている。ロシア人との、初めての対応だ。インツーリストのトランスファーが来ているはずなので「ИНТУРИСТ?(インツーリスト)」と聞いているうちに、誰かが向こうのマイクロバスをさしている。確か、その時、「アフトブス?」と聞き返すとそうだという。バスに近寄り、中にいる3人の男の一人に「ИНТУРИСТ?」と聞くとそうだという。ほっとする。「イズイポーニ?」と聞かれ、そうだと答える。初めて通じたロシア語だ。あわてて、インツーリストの看板をもって一人が出口の方に急いでいった。
バスに乗り込んで、ようやくあたりを観察する余裕が出てきた。このバスは迎えに来たのだが、あまりに遅いので、バスの中で待っていたようだ。そのうち、日本人ばかりが連れられてくる。同じ飛行機の4人組と2人組、3人組だ。ようやく、乗り込み、バスは出発する。窓から見えるのは、凍てついた町の両側にあるあるものは新しくあるものは古いアパート。書いてあるロシア文字のいくつかが読める。少し安心する。
15分ほど後に、大きな建物の前につく。インツーリストホテルだ。入口は、暗い。とても営業しているホテルの入口とは思えない。
バスを降り、入口に向かうと、ドアのところに小さな子どもがいる。唖然としていると、ドアを動かし、手を差し出す。何がなんだか分からずに、ドアの中に入ってから、そうだ、あの子は、物乞いをしていたのか、とはっとする。しかし、小学校に行くかいかない小さな子が、シベリアの極寒の夜の12時近くに一人で物乞いとは、・・・・と一瞬呆然とした。シベリアの「小さなドアマン」だ。
チェックインのお手続きも、女性が一人でカウンターであれこれやっている。途中でロシア人が割り込んで、長々と話しはじめたりして、一向に進まない。時間は、11時30分をまわっている。
ようやく、部屋が割り当てられて、エレベーターで昇る。カードだけしかもらっていない。鍵はどうなるのか心配だったが、行けというので、4階に行った。すると、エレベーターを降りたところに、事務所のような机があり一人の女性がいる。これが、ロシア流のデジェルナーヤだ。この人が、このフロアを取り仕切っている。カードを見せると、鍵をくれた。それで、部屋に行き、ようやく一息つく。12時をまわっていた。
窓の外には、川が見える。窓は広く木を使った、悪くない内装だ。デジェルナーヤのところに行き、ビールと絵葉書を買う。ビール3.4$ポストカード10枚3$。両替をしてないから、ドルしか持っていない。おつりをルーブルでくれた。高いのだろうが、よく分からない。おつりは、初めて手にするルーブルだ。とにかく、シャワーを浴びて、ビールをあけて、シベリアの記念すべき第1夜に乾杯。1時過ぎに寝る。
○第2日(2月27日(木))
ИРУКТСК(イルクーツク)
6:00起きる。ノート書き、はがき書きetc.。7:00暗い。月が出ている。朝食に行く。2階食堂。バイキング形式。日本人の4人組にあい、バイカル湖へのツアーがあるという話を聞く。
9:00に郵便局ПОЧИТАが開くらしいので行くが、9時になっても閉まっている。白人の女性が待っていたが、開かないのにあきれた様子でいなくなる。(同感)少し遅れて、開いた。日本まで絵葉書6枚15,000ルーブル。絵葉書10枚8,000ルーブル。ロシアそろばんを見つけ、これはロシア語でなんというのか?と聞き、これに書いてくれと手帳を出す。сбётыというのだそうだ。
ИРУКТСКの地図を売店で買う。これは1$。その後、両替をする。10ドルが56,600ルーブルに。1$=5500P(P:ルーブル・ロシア語のエル)と聞いていたから、また相場が変わっているようだ。
アエロフロートの事務所を見つけ、帰りの便のリコンファームをする。ところが、何か言っている。しばらくああだこうだといった結果、ペテルブルクからМОСКВА(モスクワ)までは国内線だからリコンファームできないといっているようだ。それは、承知していたので、МОСКВАから成田の分だけだといい、ようやく終わる。この時、帰りの便の時間が変わっていることが告げられる。新潟で知っていたからすぐ分かったが、もしそうでないと、また何を言ってるのだろうかと、なったところだ。何から何までこの調子で、時間がかかる。
インツーリストのカウンターでバイカル湖ツアーにjoinしたいというと、いいという。11時に来いとのこと。
その後、部屋に戻り支度をする。鍵を返す。そして、1階でパスポートとビザとバウチャーを返してもらう。この時、鉄道の切符をくれというが、18時まで待てという。これが、後で起こるとんでもないトラブルの始まりだったのだが、そんなものかとその時は思ってしまった。荷物を預ける。この荷物を預かって下さい。とロシア語で予習して言う。手数料1$。時に10:10。
その後、町を散歩。地図を片手にホテルのまわりを歩き回る。のどかな田舎の町だ。トロリーバスやら、ボンネットバスが走っていて、車はたいがいが古く、20年以上も逆戻りしたような感じだ。建物は、古いものと新しいものが交じり合っている。20分行って、戻る。帰りにアンガラ川のほとりの道を歩く。川から、川霧が立ち上っている。岸に近いところは凍結していて、ロシア人たちは、その氷の上を歩いている。白樺並木の、夏なら気持ちのよさそうな道だ。
11:00にバイカル湖行のツアーのバスが出る。25$。他に乗っているのは、日本人ばかり。4人組。2人組。それと一人旅の学生ばかりだ。それに運転手のロシア人の総勢9人。
バスはイルクーツクの町を抜けて郊外に進む。南へ走っているはずだ。しばらく行くと、タイガの森の中を走るようになる。栂のような針葉樹と白樺の混じった林が延々と続く。凍結した道路は、アップダウンし林の中を進む。車は80km以上のすごいスピードを出している。運転手は、英語を話せない。聞くところでは、英語ガイド付きのはずなのに、学生ばかりで、甘く見られたか?
12:20に車が停まる。アンガラ川のほとりだが、運転手が、何か言っている。訳が分からないが、いろいろ聞いているうちにオゼーロ(湖)と言っている。そこは、ちょうどバイカル湖とアンガラ川の境で、氷結しているのはバイカル湖、青い水面が見えるのがアンガラ川だということだ。そして、向かいに、シャーマンズストーンという大きな岩山をさしていた。凍り付いた川辺で写真を撮って、凍えるような10分をすごす。気温−15度。
バスで、片言のロシア語で運転手と話すと、いろいろ教えてくれるが、思うようにはわからない。やっと、運転手のかぶっている毛皮の帽子がシャウプカということ、50万pくらいだということ。イルクーツクで買えること、等を聞いた。バスは少し走り、湖岸の漁船の集まっているところで止る。見ると、氷結した湖面に氷の山が見える。中心から凍結してゆき、湖岸までくると、体積が膨張して、氷が上に突き出してくる。青く透明な氷であった。そこに、映画を撮っている3人組がいたが、そのうち、機材を運びに車が氷の上を走ってきたのには驚いた。
沖の方は、「氷の水平線」である。はるか向こうまで、まっ平らな氷の原っぱ。これが、世界最大の淡水湖バイカル湖だ。漁船も氷づけになっている。
そこから、5分ほどで、湖岸の小さな集落の教会につく。そこで、見てこいといってるようなので、行ってみたが、教会に入るところは見つからず、土産屋があるだけのようだ。
その後、5分ほど走って13:20にバイカルホテルГОСТИНИЧА
БАЙКАЛ につく。運転手は、「ランチ」というと、中に入ってしまった。ここは、高級な避暑地らしく、入口にドイツのコール首相が来たときの写真を貼っていたが、今は、がらんとしている。
広いレストランにいくと、客は1組あるだけで、8人とも真ん中のテーブルに案内された。メニューが来たが、ロシア語のものしかないという。英語が話せるものを呼べといってもいないという。同席の日本人学生たちは、誰もロシア語がわからないというので、仕方なく、メニューの解読を始めるが、なかなか進まない。そのうち、メードがやってきて、少し英語が分かるというので、メニューを訳せというと、それはできないという。結局、学生たちに、同じ物にしてもよいかと聞き、いくら払えるかというと、一人5ドルだという。メードに、一人5ドル払うから何が食えるか聞くと、だめだという。そうして、7ドル払えばビーフストロガノフができるということを聞き出し、それを8人分頼むまで1時間近くがかかってしまった。
まったく、とんでもない。添乗員みたいなことをやらされたが、ロシア語がまったくわからないという学生たちをほったらかすわけにもいかず、わからないロシア語での問答は、疲れた。それから頼んだ料理が出てくるまでにまた1時間近くかかり、3時前になっていた。空腹のせいもあり、料理はうまかった。
支払いの時に、ドルはだめでルーブルだけだということで、ルーブルを集めるのに苦労した。4人だけがコーラを飲んでいたのでめんどくさい計算の結果、ひとり40,000p払った。とんでもない時間潰しだ。結局15:10出発、帰りに、イルクーツク空港に行くロシア人2人を便乗させ、空港まわりでホテルに戻ったのが16:30であった。
それから、Kマルクス通りに買い物に行こうとホテルを出て、中心街に近づいてから両替をしてないのに気づき、通りの銀行に入った。両替の列には、前に2・3人並んでいた。すぐ終わると思いきや、前のロシア人がパスポートを出しながら窓口で、延々と話をしている。ようやく終わって次の番になると、またもや延々と。こうしているうちに、銀行の中で行列しているのに、やみドル屋らしき男が交換しようと声をかけてくる。ようやく終わると、時計は5時になった。すると、客はいるのに窓口をふさいで、売上金の計算をしているではないか!5時だから終わりというわけだ。
あまりのことに、呆れ果ててしまった。とんでもない20分間だ。腹を立てて銀行を出て、デパートに向かうと、道の両側の露店は店じまいをしている。デパートに着くと、ここも5時までであった。
18時にホテルに戻って列車の切符をもらわなければならないと、歩いて戻った。
ホテルに戻り、50$を両替。それから切符を受け取りに行くと、8時まで待てという。ロビーのソファには、切符を受け取るはずの日本人2人が増えていて、何か話をしていた。
そこで7時まで待つと、なんと、列車の切符がないという!!白人の女性がインツーリストの職員に抗議していた。しばらくは事態がどうなっているかわからないでいたが、いろいろな話を総合してみると、今日モスクワへ行くのは、白人女性1人と日本人11人だが、モスクワのインツーリストからは2名分しか送金されてなく、切符は日本人の単独旅行者2人に渡され、あとの分の切符は買えないという。何でも、イルクーツクのインツーリストは、送金された金でイルクーツク駅に行きシベリア鉄道の切符を買って客に渡すシステムになっているのだという。その金が送金されていないのだからどうしようもない。というのが彼らの言い分であった。日本の旅行代理店のイメージでインツーリストを考えていたが、どうもそうではないようだ。
大体、バウチャーという制度自体が、通信網の発達を前提としない制度である。旅行社自身に旅行の情報を持たせて処理するシステムであり、同時に、予定されたところ以外へは行かせないシステムでもある。このインターネットの時代に旧き時代の制度のなごりがこれである。ともあれ、こちらとしては、モスクワと連絡を取って、切符をよこせというしかなかった。どうも、インツーリストで切符を担当していた女性が勤務時間の終わりなので6時過ぎに帰ってしまったことが問題を複雑にしたようだ。その女性担当者に連絡を取れといっても、それはできないの一点張り。結局責任の所在がはっきりしない。同じインツーリストでもホテルとサービスは、まったく別組織のようで、誰に話をしていいのかわからない。
とにかく、つかみ所がないのだ。そのうち、インツーリストのサービスの担当者の名がセルゲイ氏だと分かり、少しはっきりしてきた。その外に、英語を話す切符を駅に買いに行くのが仕事のジーンズをはいた男がいる。彼らの上司が帰った女性担当者のようであるが、残ったメンバーの中では、この2人を相手にするしかない。
そうこうしているうちに、8時を過ぎた。モスクワとは連絡が取れず、切符が買えない。一人215ドル出せば、切符を買えるという。次のモスクワ行きは明後日までないという。日本人の学生たちは、そんなに余裕があるわけではないが都合できそうだという。スコットランド人女性は、現金は50ドルしかない、カードは使えないのかというと、だめだとの返事。
その間に切符を受け取ったのは2人であるが、うち一人は、残りの9人と同じ旅行会社の手配であることが明らかになる。他は、別の会社の手配であった。なぜ2人だけ切符があるのか、と不思議だったが、これで謎が解けた。そのことを含め、学生の中心になっていたS君に話し対策を考えた。切符をもらっていたK君にそのことを話し、切符は彼女のものである可能性が強いことを話した。また、時間が迫っていたため、どうしてもだめな場合の措置を話し合った。そして、2日も遅らせることはできないので、金を用意すること、不使用証明を書かせること、バウチャーの原本を返させることを行い、切符を買うことにした。そして、K君からスコットランド人女性Jillに理由を話し切符を渡すと、彼女は、とても喜んでいた。
まともに夕食もとれそうもないのでS君N君K君と4人でカフェでとりあえず何か食べておこうということになった。オープンサンドのようなものとチャイをとった。他の学生のグループにも話して話がまとまり、それぞれから215ドルづつ集め、バスで駅まで行き、切符を買わせた。「ディスカウント」とかで7ドル戻ってきた!。12時過ぎていた。
やっと切符が手に入り、ほっとした。列車は1時過ぎなので、ホテルに戻り時間を過ごすことになった。S君と2階のバーで生ビールを飲んだ。2杯で50,000P。ほっとしたビールだった。一体、この数時間は何だったんだろうと話し合った。S君は京大の地震学のマスターを修了するところだとのこと。
1時近くになりホテルを出た。その際、2人組の一人がビザを紛失したとの話がされた。ビザ!が、見つからず、マイクロバスでイルクーツク駅まで行き、ロシア号に乗り込んだ。与えられたコンパートメントは、S君N君とJillの4人であった。ようやく、ロシア号の発車だ。25:05イルクーツク発
車掌がシーツを持ってきた。25000p。高いらしい。ウラジオストックからは15000pだたとか、ロシア人と値段が違うとか話していた。ベッドは下の段、明かりが点灯しない。車掌に言ったが、見に来てザフトラ(明日)といい何もしないで帰っていった。みんなで持ってきたワインを少しずつ飲んで、2:00ようやく寝る。長い一日だった。
○第3日(2月28日(金))
ИРУКТСК(イルクーツク)⇒МОСКВА(モスクワ)車中
5時20分ころ目が覚める。駅に停まっている。Зима(ジマ)だ。夜は明けている。またうとうとしているうちに、朝になり、起きた。S君にこの列車の編成などを聞く。朝食はカップラーメン。サモワールではいつも熱い湯が使える。
次の停車駅はНижнеудинск(ニジュネディンスク)に9:35だ。15分停車。
駅には、ホームがないので、列車のステップを降りる。列車のデッキから降りると、いろいろなものを売りにおばさんたちが来ている。自家製の食べ物も多い。この地方では、現金収入を得る数少ない方法なのだろう。これなら特に食料を持っていかなくても、旅を続けることができる。駅の売店(キオスク)もある。話すロシア語は、早口でほとんど聞き取れないが、物を売っている調子は分かる。たとえば、"ピーロシキ、ピロシキ"といった具合。外は、零下15度の世界だが、意外に寒くない。
車掌は、オーバーを来て、デッキの下に立っている。給水用のパイプを持った人、ハンマーで車体をたたき氷を落としながら車体を検査する人など、忙しく動きまわっている。時間が少なくなると車掌が戻るように指示。そして発車する。発車のベルなどは聞こえない。
コンパートメントに戻り、車掌に灯りを直すように交渉するために、ロシア語の予習。「私の部屋の灯りが壊れている。昨日、あなたは”明日”といった。」これを、ロシア語にするのに、一苦労。しかし、時間はいくらでもある。ようやく、それらしきものを作り、(Лампа
не работает мая место.Вчера Вы говорил
”завтра”.変なロシア語!)車掌室に行き、話すと、分かってくれた。そうか、灯り=ランプで壊れている=働かない(ニエ
ラボータエット=not work)なのか!と変に納得してしまった。 車掌は若い男に変わっていたが、すぐに来てくれて、電球を取り替えてくれた。
列車の中では、時間はゆったりと流れていく。外は、タイガの栂のような針葉樹と白樺の林。そして、雪の原がずーっと続いている。人の姿どころか、人家すらほとんど見えない。これがシベリアだ、と変に感動する。
同じコンパートメントにいるスコットランド人と話して、彼女の名はJill
PRICE、 スコットランド人で獣医。大学を出て世界旅行中。イギリス⇒ニューヨーク⇒タヒチ⇒ニュージーランドで5ヶ月働き⇒オーストラリア⇒タイ⇒ビルマ⇒インドネシア⇒北京とまわって、鉄道でイルクーツクに来たこと、モスクワを経て9ヶ月ぶりにスコットランドに帰ること、4月からグラスゴー大学で勤めること、薬理学を専攻していること、母親は学校の先生で,dyslexia(失読症)
の子どもを教えていること等を聞いた。弟が獣医でオックスフォードにいたこと、自分も教師で、イギリスのIT教育に関心があることを話すと、家に来いという。
同室の4人でいろいろと話した。また、イルクーツクの後始末のことも、自然と、この部屋が中心になり話した。名簿を作り、その後の対策を相談し、モスクワについたら連名で手紙を送ること、東京にいる人間で、旅行会社に行くこと等を決めた。こうしているうちに、列車は12:30にタイシャットに停まり、14:42にイランスカヤに停り、18:46に大きな駅のクラスノヤルスクに停まった。その度に、列車から降り、ホームを歩き、買い物をした。お金の感覚がまだ分からず、問答も訳が分からないまま、買ったものは、ジャガイモの入っているピロシキ、水餃子みたいなペリメニ、アイスクリーム等である。ペリメニは、お金を多く渡しすぎたらしく(1000p渡したつもりで5000か10000渡したようだ、あとで考えると。)山ほどくれた。S君も挽肉のハンバーグのようなものを山ほどもらい、みんなでせっせと食べた。そうこうしているうちに、また夜が来た。
時差の関係で、一日が25時間の生活がモスクワまで続く。途中で1時間遅らせるのは、とても奇妙な感じである。ゆっくり、しかし、しっかり一日が終わり夜になり、寝る時間が来る。コンパートメントの中を中心に、せいぜい一日数百歩〜千歩しか歩かない、奇妙な生活の始まりである。酒を入手し損ねていたら、Jillが荷物の中からスコッチでなくバーボンを1本だして、それをみんなでごちそうになる。かくして、2月28日は終わる。
○第4日(3月1日(土))
ИРУКТСК⇒МОСКВА車中
6時ころ目を覚ます。列車は薄暗い中を進んでいる。窓から外が見える。ボーっと眺めながら、この数日のシベリアの景色を思い出す。闇の中で作った何句かを、
車窓には 白樺(ベリョースカ)林が 流れゆき
バイカルの 水平線の 凍りつき
シベリアに 窓の灯りの あたたかさ
40度の 寒暖分かつ 二重窓
シベリアの 貨車は重たき 木を運び
白き野の 樹氷に赤く 朝日さし
薄明に 人の歩けり 白き駅
8時、日の出。ノボシビルスクに着く。下りて、買い物。ピロシキを買う。3000pだが、細かいのが2700しかなく、まけてもらう。ピロシキはあたたかく、中に、ソーセージとジャガイモが入っていて、とてもおいしい。
列車は、大きな川を渡る。レナ川だ。昔から、地図の上では知っていた、シベリアのレナ川。それを今渡っている。列車は、シベリアの中を走っている。しかし、このころから、平原に入り始めている。列車の線路の両側には、白樺の防雪林が作られている。S君が、列車の速度を測ろうと、線路に設置しているキロポストを使って測る。1kmを40秒で走った。すると、時速90kmになる。
Jillといろいろと話をする。彼女がイギリスを出てからここに至るまでの9ヶ月の旅行の話。スコットランドの家の話や母親の話。彼女の仕事の話。彼女に、バウチャーを見せてくれと頼んだ。なぜかと聞くので、日本帰ってから旅行会社と交渉をするためだといった。ニュージーランドのSUN
TRAVELとかいう会社が発行したものだが、我々の1枚の書類のものと違って、クーポン券の形式になっている。N君の日本の別の会社のものもクーポンになっており、こういう形式でもロシアは旅行できるようになっているのだろう。信頼性の問題はあるが、西側と同じ形式になりつつあるのかもしれない。Jillはとても勤勉な生活をしている。日課のように、母親への誕生日プレゼントだという刺繍をゆれる車内で熱心にし、ホーキングの「時間の始まり」という、ペーパーバックスの本を読み、自分で集めた詩集のノートを読み、毎日、日記をつけ、聖書を読んでから寝る、という生活をひたすら続けている。なかなか意志の強い女性だ。さまざまな国のスタンプが押されている彼女のパスポートをS君が見せてもらって時に、年齢がS君と同じ24歳だとわかり、みなで驚いてしまった。もっと上だと想像していたのだ。それくらい落ち着きのある女性だった。
昼に食堂車へ行き食事を取る。客は一人もいず、入ると、ボーイが席を決め、とてもあいそうよく何事か話している。英語は通じない。メニューも出さず、どうも決まったものしかできないみたいだ。最初に、インスタントコーヒーと赤い飲み物の缶詰を持ってきてどちらか選べという。そのあと、スープとパンを持ってきた。これは何かと聞き、ノートに書いてもらった。これが、ソリャンカという野菜のスープだった。続いて、皿に牛肉の焼いたもの、ジャガイモ、大きな赤ピーマンをのせて持ってきた。そして、最後にコーヒー。これで、60,000pであった。この国の物価では、とても高価な食事だ。そのうちに、パラビンスクに着く。ロシアの白ワインを20,000pで買った。酒には、1本づつ納税らしきシールが貼っている。
途中で、車掌のВЛАДИМИР(ウラジミール)がインスタントコーヒーを欲しいといってきたので、ビンごとあげた。すると、チョコレートをくれた。ウラジミールは、英語が話せる。次の停車駅、オムスクでも買い物に出た。大体、停車すると、運動も兼ねて、下車して歩き回る。数少ない(唯一の)運動の機会だ。キオスクでビールを買う。4,000p。この売店の値札が汽車の絵がかかれて面白いので、売り子に値札をくれと交渉するが、埒が明かない。(当たり前か)Sくんといっしょに、車掌のウラジミールに頼んで交渉してもらうと、3枚くれた。S君と、Jillと3人で分けた。いいお土産だ。
次のナジバーエフスカヤでは、肉入りのピロシキを買う。これはおいしかった。何というのか聞くと、ブリータと教えてくれた。1,000Pであった。S君が、パッソールという、ひまわりの種を煎ったものを買ってきた。売っているのは見かけたが、何なのかわからなかったが、食べ物だった。ごちそうになった。また、アイスクリームもごちそうになった。この寒いのにロシア人はアイスクリームを実によく食べる。マロージュナヤ、マロージュナヤと言いながら売っている。合間に「複雑系とは何か」を読んでしまった。そうこうしているうちに夜になり、買っておいたワインをみんなで飲んで、寝た。
○第5日(3月2日( 日))
ИРУКТСК⇒МОСКВА車中
今日で鉄道の旅は3日目になる。今日は、アジアからヨーロッパへ入る日だ。モスクワから1777kmにヨーロッパとアジアの境の標識のオベリスクがあるという。通過は、早朝で、まだ夜が明けてないのだが、みんなで見ることにする。4:12スベルドロフスクに30分停車。大きな駅だ。そこがアジア最後の駅である。発車後、今か今かと列車の南側を見ている。ついに5:29、暗い中に、一瞬、白い塔が過ぎ去った。思ったより小さい。いよいよヨーロッパだ。その後、また寝る。
8:30起床。ペルミに着く。大きな町だ。ここで、カプスタという、野菜入りのピロシキを買う。2個で3000p。とてもおいしい。チャイを車掌から1000pで買う。ジャムが入っていて、おいしい。車窓は、白樺と雪景色になっていて、人家がないところでは妙高あたりの景色と似ている。そして、なんとなく春めいている。次の停車駅バレジノは、ナポレオンの敗北したところではないかと思う。いよいよ歴史の地名が出てくる。ここで、コケモモのリキュールを15,000pで買う。アルコール度20%と書いている。
また、次のキーロフでは、赤ワインを25,000pで買う。明日は、いよいよモスクワだ。ついに残り1000kmを切った。イルクーツクから6000km以上の道のりだ。日が暮れて、ワインを飲んでいると、4人組がロシア人の学校の先生に話しかけられたというので、行ってみる。キーロフの中学校の先生で、コーリャ(=ニコライ)という名だそうだ。ドイツ語を話せるそうだが、とっさのことで、あまり出てこない。それでも、少し話をした。あすは、早起きをするので、早めに寝る。
ロシア旅行記2へ続く
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