高原の開拓と山麓の眺望

高原の開拓

北のパラオ
北原尾開拓地は蔵王連峰と青麻山の間の高原地帯にある
開拓の歴史
太平洋戦争当時、国策で南洋諸島に移住。終戦に伴い本土に引き揚げることに。
その引き揚げ地のひとつがこの地
南洋パラオ島からの入植者が大半「北のパラオ」→北原尾

困難を極めた開拓

標高450mの国有林内の高原地帯。入植当時は大木雑木の繁茂した土地。
2m幅の道路が1本のみ
南洋の気候とは打って変わった寒冷な厳しい自然条件
手作業で開墾、慢性的な食糧不足、豆・麦、ジャガイモなど栽培、収穫量少ない
1955年頃牧草を育て酪農に転換、その後大根など高品質なものの栽培

現在、パラオ共和国と交流続く

蔵王連峰と七日原扇状地

ここから蔵王連峰を見ると、手前に雄大な扇状地
烏帽子岳や屏風岳、馬ノ神岳に囲まれた場所にあった火山が山体崩壊
その土砂を堆積させて作られた。

ガイド資料

北のパラオ・太平洋戦争下で、 国策により南洋群島に移住していた日本人たちがいた。
・敗戦に伴い、 南洋群島からの引き上げを余儀なくされ、日本全国に引き 上げたが、 その受け入れ地として選定された場所の一つが蔵王町であった。
・中でも、パラオ島からの入植者が多かったことから、 北のパラオという意味を込めて北原尾と名付けられた。
開魂
(開墾)
・1946年から人々のが入植したが、 それまでの温暖な気候とは打って 変わった寒冷地の雑木林での開拓は困難を極め、 諦める者も多くいた
・最終的には32戸が定着した。
・当時は、いろいろな作物を試しながら、豆、 麦、 ジャガイモなどの栽培に 取り組んだが、そううまくいくものではなかった。
・その後比較的栽培が容易であった牧草に目をつけ、 酪農の転換する者や 養鶏を行うものが増えた。
・当時の苦労を記録する開魂の碑が、その困難さと先人の努力を今に伝え ている。
・開墾の碑には天皇陛下もご訪問された。
現在の交流現在も蔵王町は、 パラオとの交流を続けており、オリンピックのホスト タウンに名乗りを上げるなどしている。
周囲の景観・七日原扇状地が一望できる。
・扇状地は、山頂や山腹で崩れた土砂が、水の力で徐々に運ばれてできた 扇形の地形。 水は、 土砂を堆積させながら流れを変えることから中心部 から、徐々に外側に流路を変えていく。
・土砂がたまってできたことから、水を浸透させやすく伏流水を伴う。
・一大酪農地帯であり、 牛が出迎える。
・青麻古道の入り口として、 登山客に親しまれている。