蔵王山麓に広がる扇状地形
七日原扇状地は、蔵王東麓に広がるなだらかで広大な地形で、上空から見ると、谷口を頂点とした扇状をしています。
これは、火山活動によってもたらされた土砂が堆積してできた「火山麓扇状地」と呼ばれる地形です。谷口のさらに上流には、 屏風岳、馬ノ神岳、前烏帽子岳に囲まれた窪地があり、その周囲は急な崖となっています。何らかの活動で崩壊したこの崖が 土砂の供給源となり、大量の土砂が河川を流れ下って、七日原扇状地が形成されたと考えられています。
この崖や窪地がどのようにしてできたのかは、はっきりとわかっていません。古い火口であった窪地が侵食によって大きく なった、または噴火や巨大地震などをきっかけとして山の一部が崩壊してできたなどの可能性が考えられます。
『七日原』 という地名の由来
江戸時代中期の元禄14年(1701年)の記録に「新地と申す所に木地挽八人、年久しくまかりあり」とあり、この地には 豊かな森林資源を利用して椀や皿、盆や杓子といった日用雑器を生産する人々が古くから暮らしていたことが分かります。
寛保3年(1743年)、江戸幕府8代将軍の徳川吉宗から軍馬増産を命じられた伊達家は、白石城主の片倉家に命じて七日 原の原野に牧場を作られました。このとき、片倉氏が一帯を視察するのに七日を要したことから「七日原」と呼ばれるように なったと伝えられています。
新地の木地師たちは七日原牧場の番をする足軽として片倉家に召し抱えられましたが、江戸時代後期以降に遠刈田温泉が賑 わいを見せるようになると、土産物としての木地製品やこけしの生産・販売に力を入れるようになります。 木地業の先進地として発展し、他地域の各系統のこけしやその創始にも影響を与えました。
扇状地で生まれた産業
江戸時代に軍馬の増産地として利用された七日原扇状地は、明治25年(1892年)になると、当時の宮城県土木課長 であり、のちに宮城県知事も務めた早川智寛氏が乳用牛ホルスタインを主とする「早川牧場」を経営する場となりました。 その後、昭和4年(1929年)に早川氏は撤退しましたが、昭和39年になると、神奈川県で酪農経営の電化・機械化 の研究機関として発足した『酪農電化センター』が110ヘクタールの土地を確保し、酪農を始めました。昭和55年には、 生乳を加工する国産ナチュラルチーズ実験製造工場を建設して酪農事業の一貫体制確立を目指し、名称を現在の『蔵王酪農 センター』に変更しました。この地で生産された高品質なチーズは 『蔵王チーズ』と呼ばれ、全国的にも人気を博しています。また、七日原扇状地では牧草を栽培する酪農のほか に、根菜類の栽培による農業も盛んです。『七日原高 原大根』は、この地の名産品となっており、「蔵王高 原大根狩り」などのイベントも毎年開催され、多くの お客様をお迎えしています。しかし、この地でこうし た産業を生み出すに至るまでは一筋縄ではいきません でした。
土地の弱みを克服した先人達の知恵
蔵王山の東麓に位置するこの場所は、冬季には「蔵王おろし」と呼ばれる強風が吹き下ろし、農地の土壌や植えた作物が吹き飛ばされるほどの過酷な土地でした。地表 から4mほど堆積している蔵王山由来の火山灰土は、水はけは良いですが、栄養分はほとんどなく、さらには、作物が育つために必要な栄養素となる 「リン酸」 を作物に ほとんど吸収させない厄介な性質を持っていました。
この地に暮らす人々はこれらの問題を解決するべく、防風林を植え強風から土壌や作物を守るとともに、酪農で出た牛糞を畑に撒いて混合し肥沃な土壌に改良するなど 大変な苦労と努力を重ねて火山性土壌の弱みを克服し、農業を発展させました。
七日原扇状地は、こうした地球の活動の歴史と先人達の苦労と知恵の歴史を知ることができる場所です。