アフリカ雑感

(この文は1992年にアフリカを訪れたときに書いた文をそのまま載せています。
相当な時間が経ちましたので、現在は事情が変わっていることも多いと思います。)


今回のアフリカ滞在は、わずかな期間であり、また、訪れた国も、ケニヤ・タンザニアの2ヶ国で あったのであるが、旅の途中見たこと・感じたこと・思ったこと等、思いつくままに、並べてみる。


<ナイロビまで>
 日本からナイロビまで,1万1千km(地球の周の4分の1強)。  直通の飛行機はなく、おもな経路は次の様になっている。   他に、いくつか乗り継いでいく方法もある。
どの便でも、東京を出た翌々日にしかナイロビに着かない。運賃は、夏のハイシーズンで安い航空券で、 往復25万円位から。
私の場合は、滞在日程との関係で、モスクワ経由であった。
成田を出て、約10時間でモスクワ。乗換えの時間をへて、2回の給油のための着陸をいれて12時間で ナイロビに着く。
 日本と時差は、5時間ある。
ケニヤの入り口、ケニヤッタ国際空港は、ナイロビのはずれ、サバンナの真ん中にある。
国立博物館の入場券



<気候> 
アフリカ、というと、「暑い」というイメージがあるが、東アフリカのケニヤ・タンザニアは、 夏の日本に比べて、とても過ごしやすい気候である。
ナイロビで8月の平均気温15.6°C、降水量26mmとなっている。 一方東京では、平均気温26.7°C、降水量153mmである。
ちょうど、夏の軽井沢にいるような気候である。
熱帯に位置するのに気温が低いのは、ナイロビをはじめケニヤの大部分が標高1000〜2000mの 高原にあるからである。ナイロビは赤道から140km南に位置し、標高1660mの高原にある。
ビクトリア湖とカバ もちろん、インド洋に面した海岸地方では、熱帯の暑い気候である。 海岸の町モンバサでは8月の平均気温24.2°Cとなっている。
 季節は、夏・冬はなく、太陽が赤道を照らす3〜5月が大雨期、10〜12月が小雨期 (日本では春と秋)であり、日本で夏と冬の時期は、太陽が傾き、乾期となる。



<車社会>
 ナイロビの町は自動車があふれている。最新式のヨーロッパや日本の車から、 はるか昔のモデルの車まで、車の博物館といった感じである。
ぴかぴかのベンツのとなりを20年も昔のトヨタカローラが黒煙をはきながら走るといった様子である。 日本では、とっくにスクラップになっているような車も、現役である。 そのせいか、道路わきには、よく故障車が止まっている。
 突然、車社会になってしまった様なのだが、歩行者にとっては、命懸けである。
旧イギリス植民地なので、車は左側通行なのだが、道路の交差は、ランドアバウトと呼ばれる、 ロータリー式であり、ナイロビ市内でも、信号は数ヶ所しかない。また、ゼブラと呼ばれる横断歩道も ほとんどない。この国では、自動車優先になっているので、事故が起こっても歩行者が悪い、とされる ようだ。
 歩行者が道路を横切るためには、車の流れの間を縫って、走るようにして渡る。信号もないのだから、 車がいつ止まるか全く予想がつかないわけで、慣れない旅行者などは、道路を渡るだけでくたびれてしまう。 おまけに、整備不良というか、車の寿命というか、排気ガスをまき散らして走っているので、大気汚染が激しい。
これを見ていると、車というのはけっこう走るんだなあ・・・・と、日本の道路 の様子を思い浮べてみた。日本では、古い車が走っているのをほとんど見ない。 ほとんどが、10年以内の車である。古い車はどうしたのだろう、スクラップにしてしまった? しかし考えてみると、走れなくなったからという理由ではなく、古くなったからというだけで、スクラップに している。何か、無駄なことをしているのではないだろうか?そんなことも考えさせられた。
 また、日本では、一応、人命優先、という建て前になっている。が、実態はどうか?
横断歩道で子供が待っていても、止まる車を見ることはほとんどないし、人や自転車を止まらせても、 先に車が通る、ということは、ざらである。「そこどけそこどけ車が通る」。子供に「横断歩道は車が こないか確かめてから渡ろうね」等と教えなければならない、建て前の人間優先なら、いっそ、日本も 車優先にした方がすっきりする?



<鉄道>
ケニヤには、植民地時代の19世紀から今世紀にかけて、鉄道が建設されてきて、現在、幹線は海岸の モンバサからナイロビを通り、ビクトリア湖のほとりのキスムまで横切り、ウガンダへ至る。
また、何本か支線もある。
ケニヤ鉄道のマーク ケニヤの鉄道建設の歴史は、ナイロビにある鉄道博物館に詳しい資料が展示されている。この資料によると、 この鉄道は5回名を変えている。名前はこの地域の歴史を物語っている。
  1. U.R.  (UGANDA RAILWAY)1896年

  2.      海岸のモンバサからウガンダまでの鉄道建設に着手
  3. K.U.R.(KENYA UGANDA RAILWAY)1926年

  4.      ウガンダのトロロまで延びる
  5. K.U.R.&H(KENYA UGANDA RAILWAYS AND HARBOURS)1927年

  6.      ビクトリア湖の汽船も運行
  7. E.A.R.&H(EAST AFRICAN RAILWAYS AND HAREOURS)1948年

  8.      ドイツ植民地であったタンザニア鉄道を併合
  9. K.R.(KENYA RAILWAYS)1977年

  10.      ケニヤ・ウガンダ・タンザニアが独立し、鉄道も分離
ナイロビからキスムへの切符  ケニヤにおける鉄道建設は、大変な工事であったようだ。それは、海岸のモンバサからナイロビまで、 標高差が1600mある。(ちなみに、日本の一番標高の高い駅、小海線の野辺山で約1300m)
さらに、西にはリフトバレー(大地溝帯)と呼ぶ標高差500mの急な地形がある。
こういうところに、機械化されてない今世紀はじめに 鉄道を敷設したのである。
 いま、ナイロビ〜モンバサは1日夜行2便、ナイロビ〜キスムは1日1便の運行であり、1等から3等の 車両で編成されている。1等は、1部屋2ベッドの寝台車、2等は1部屋4人の寝台車で、3等は普通車。 食堂車を連結している。食堂車では、ディナーの時間になると、予約をとりに来る。値段は安いが、スープ・ 魚・肉・デザート・コーヒーと、昔ながらのヨーロッパのディナーの様式を守っている。
キスム駅  ちなみに、料金はナイロビ〜キスムで1等502KSh(1800円)2等で302KSh(1000円) ディナー140KSh(500円)等である。
 ナイロビの鉄道博物館には、当時使われたSLが4台ほど展示されている。



<賃金>
 日本のお金を持って行くと、なにか別世界に行ったような気になる。突然、「大金持ち」になってしまうのである。 レートは1円=3〜4KSh(ケニヤシリング)だから一万円が3000シリング位になる。
 ナイロビで、人々はどれくらい給料をもらっているかというと、「専門職」であるドライバーで3000KSh。
これが、平均より少し高い人の給料だそうだ。これで、家族が1ヵ月生活をする。1日平均100KSh(300円!)。 これで、食べ物が買えるくらいの物価である。
 夜行列車に乗ったとき、現地の人に日本の様子をきかれた。その話の中で、「毎月家賃に1000ドル(13万円) 払っている。」といったらびっくりしていたが、3000KSh=80$だから、彼らの年収がだいたい1000$に なるから、驚くのは当然かも知れない。
 かくして、旅行しているときは、大金持ちになってしまうのだが、帰ると、はたして日本人は、本当に豊かなのか? と考えてしまう。



<人類のふるさと>
 アフリカは、人類発祥の地と言われている。
人類の始まりの化石が、タンザニアやケニヤの各地で発掘されており、ナイロビの国立博物館にもキスムの博物館にも 展示されている。タンザニアのオルドバイ渓谷で400万年前のアウストラロピテクス・アフリカヌスの化石が発見されたのを はじめ、ケニヤのツルカナ湖のほとりでも、化石が発見された。
アウストラロピテクスの化石 博物館には、発掘当時の資料が数多くある。
また、ナイロビの南、オロロゲサイリ(Olorgesailie)には、多くの石器と集落の跡が遺跡として保存されている。
現在は、乾燥して、サバンナになっているが、かつては、木が茂り、動物が多く生息していたのだろう。



<言葉>
列車に乗って、ケニヤの人と話をしたときに、「日本では何語を話すのか」と聞かれたので、日本語だというと、 「日本語だけか?」と聞かれ、そうだというと、感心したような顔をしていた。
 当り前のような問答だが、ケニヤの人にとっては、一つの言葉だけで用が足りる(一つの言葉しかない)という ことはすごいことだそうな。
 ケニヤの言葉の事情は、次の様になっている。
まず、部族語と言われる、小さな部族の言葉が、50もあるそうだ。キクユ語だとかマサイ語だとかルオー語だとか、 大きな部族から小さな部族まで、それぞれの言葉を持っている。
そして、東アフリカの共通語であるスワヒリ語。これは、ケニヤ・タンザニア・ソマリア・ウガンダなどの国で使われる。
 さらに、英語。植民地時代からの言葉である。
こういう3重のことばの使われ方になっている。
ケニヤの公用語はスワヒリ語と英語である。ケニヤで話されている言葉は、時と場合と相手によって、英語であったり、 スワヒリ語であったり、部族の言葉であったりする。
部族のことばは、私には、全くわからないが、一番親しい人と話すときに使われるらしい。
スワヒリ語は、東アフリカの共通語で、言語としての歴史が浅い言葉である。(12世紀ごろ体系化されたというから 800年くらいしか歴史がない)日本語ともヨーロッパ語とも全く違った体系の言語で、面食らう。 が、列車で会った、文化人類学を研究しているというアメリカ人によると、例外や特殊な言い回しが少ない 「グラマティックな言語」だから難しくない言葉であるらしい。少し現地の人に教えてもらった。
 そして、相手によっては英語を話す。英語は学校で教えられているということだ。
 我々日本人から見ると、「すごい」ことだが、相手を見ると自然と言葉がでるらしい。



<教育 子供 学校>
 教育制度は、小学校(義務教育)の後、ハイスクール、大学(ユニバーシティ とカレッジ)というようになっていて、アフリカの中では義務教育の実施状態は良いらしい。
生徒達は、ユニフォーム(同じ色のセーター)を着ているので、学校は、それとなくわかる。 もっとも、9月から新しい学年なので、訪れた8月は、学年末の休みの様であったが。 ハイスクールへの進学率は、かなり低いようである。
そして、卒業時にはKCSE(Kenya Certificate of Secondary Education)という試験があり、これによって大学進学が 決定される、それが社会での地位に直結するそうなので、かなりの受験戦争らしい。



<本屋>
 ナイロビをはじめ、少し大きな町には、本屋がたくさんある。が、売っているのは、半分くらいが学校の教科書だ。
ちょうど、新学年が始まる直前であるせいか、小学校からハイスクールまでの教科書をそろえている。日本の高校に当たる 学校の、数学のテキストを買ったが、1冊150KSh。これは、この国の所得に比べかなり高価である。
 また、一般の本も、英語のものがほとんどで、スワヒリ語の本は少ない。本を読むという層は、英語を使うのか、とも 感じた次第である。

博物館・電気水道・失業・交通機関・ビクトリア湖・タンザニア・動物・切手・郵便・ビール・食べ物・リフトバレー 等にも触れたいが略す。



1992年9月記 (C)URAKAWA Akihiko

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